ニューヨークに住む人々
「昔、大晦日にマンハッタンの蕎麦屋を訪れたら、そこには坂本龍一とオノ・ヨーコがいた」
渡米当初、NY在住歴の長い知人がそう言ったとき、「あぁ、ここはニューヨークなんだ、都会ってすごいな」と、年の瀬にそのビックネームたちが蕎麦をつつく姿を想像してため息が出た。
日本食レストランで働いていた知り合いはメリル・ストリープやマット・デイモンの給仕を担当したことがあるし、仲の良い友人の店には日本のお笑い芸人がよく通っている。
ある先輩が誇らしげに見せてくれた写真には、仕事のイベントで日本から来たYOSHIKIと緊張した顔つきの先輩がツーショットで写っていたこともある。
東京にさえ住んだことのない自分は、地元で数回会ったことのある芸能人といえば大泉洋で(いや、彼は十分に素晴らしい俳優だけれど)、華やかな世界の話とは縁がない庶民なのだけれど、
それでもNYに住んで2年足らずのうちに、式典で安倍総理をお見かけしたり、個展で西野亮廣さんに会ったりもした。
けれど、今回はそういうミーハーな話ではない。
干渉はNo Thank You
世界のセレブや有名人が住んでいる街と聞くと、
そこには人だかりが出来て、街中が一時パニックに…
という光景を想像してしまうけれど、
女優のサラジェシカパーカーは、NYの地下鉄にのって家に帰る様子をInstagramのストーリーにサラっと更新するも誰にも声をかけられていないし、
知り合いがハドソンリバーをランニング中に、ハリウッド俳優に遭遇したときも、他に気づいた人はいなかったそうだ
(ただし後日そのことをインスタグラムにアップしたら、世界中のファンから「何時にどの付近で見かけたのか教えて!」という英語メッセージが大量に届いたといっていた)
渡辺直美さんはVOGUEの動画の中で、ブルックリンにあるお気に入りのカフェバーに来ると21、22の上京した頃の気持ちに戻って友達と夢を熱く語れるという。
何を言いたいかというと、この街は他人への関心がめっぽう薄いので、人の目を気にせずにのびのびとしていられる空気がある。
暑い日にダウンを着ていても、
左右の靴が違っていても、
男性がスカートを履いてメイクをしても
特別な視線を浴びることはないし、
地下鉄の中で歌の練習をしても誰も気にも留めない。
これはニューヨークという街の大きな特徴だ。
ジャッジをしない習慣
他人に干渉しないということは、他人からも干渉されない。
白い目で見られたり、影でコソコソ言われたりする心配がいらないので、日常の些細なことにおいて、すごく気が楽になる。
NYの地下鉄で赤ん坊が泣いたとき、近くの大人があやすことはあっても、親の管理不足と言わんばかりに冷たい視線を送る人は少ない。
他人の言動にフラットでいるということは、自分の中の常識や暗黙のルールで他人をジャッジしないということが言える。
これは人種や異文化が多く入り混じっていることも大きく影響している。
例えばフランス料理店で、スープ皿に口をつけてスープをすすったなら、”テーブルマナーを知らない人、お行儀の悪い食べ方”とされるけれど、
欧米人からすると、日本人が蕎麦や味噌汁のお椀に直接口をつけることも同様に不自然に映るという。
そして、このように日本食レストランの味噌汁にはレンゲがついてくる
日本人としてお椀を持ちあげたい衝動と、郷に入れば郷に従おうとレンゲを使いたい気持ちの葛藤ときたら…
トコロ変われば文化も変わるものだと納得させられる。
楽しいことや面白いことはどんどんシェアして、日常にユーモア(ときにシニカルなものも)を取り込むのが大好きなニューヨーカーだけれど、
他人のプライバシーや自由な時間、文化的なことにあまり口を挟まない寛容なそっけなさがあり、それがセレブリティへのあっさりとした対応にも繋がっているように感じる。
特に他者へのジャッジは、自分が正しくて相手は間違っているという極端な思考に陥りやすい。
そして、他人からもジャッジされる可能性があると、人の目を気にしたり、やりたいことがあっても批判を恐れて挑戦しなくなったりと、自分らしくいられなくなる。
干渉せずとも自由は死せず
自由民権運動もどきを唱えずとも、誰を批判、干渉、ジャッジすることもなく、
あなたは守られた存在で、自由はただそこに横たわっている。
自由の女神が微笑むように、やさしく放っておいてくれる
この街が好きだ。