ある日のリトルイタリーで
パーティーの帰りみち、軽くお茶していこうという話になり、リトルイタリーにあるカフェへ向かった。
そこはチャイナタウンにも近く、観光客やアジア人でいつも賑わうエリア。
そのカフェのウェイターはイケメンぞろいで、オープンテラスの席はいつも白人で埋まっており、アジア人がそこに座ることはまずできないという。ニューヨークってそういうところよね、と誰かがつぶやいた。
店に到着すると通りからも見えるテラス席で白人のお客がお茶を楽しんでいた。私たちは案の定、店の奥へと案内され、近くの席のお客さんもアジア人やヒスパニック系だった。美しく鼻の高い白人のウェイターが給士を担当してくれた。
このようなことはニューヨークでは、ごく当たり前に起きる。
自由な街=平等、ではない
ニューヨークと聞くと、自由の女神やLGBTゲイパレードなどのイメージから、皆が平等な街と思う人もいるかもしれないが、それは大間違いだ。
貧富の差や、肌の色での不平等というのはそこら中にあるし、資本主義つまりお金を持ってる人が勝ちという意識も強い。
低賃金の仕事に携わっているのは有色人種の比率がいまだに多く、平均世帯収入も大きく異なる。レストランで隣の人の料理がすぐに出てきたり品数が多いと、同じお金を払っているのになぜ平等じゃないのかと日本の感覚では思いそうなものだが、そういう人はチップを弾む常連客だったりするから、そんな不満は言ってはいけない。
「みんな違ってみんな良い」というのは、個人に自由があるのと同時に、社会の中の不平等を甘んじて受けていれることでもある。

均等に同じ権利や義務が与えられることが正しいわけではない。
移民の街、ニューヨークでは特にそうで、文句を言ったところで何も変わらないし、きっと「愚痴ばかりでネガティブな人」と思われるだけだろう。
人生が酸っぱいレモンなら
アメリカにはこんな諺(ことわざ)がある。
”When life gives you lemons, make lemonade”
「あなたの人生に酸っぱいレモンが与えられたなら、甘いレモネードを作りなさい」
私はこのフレーズが好きだ。
ハードモードな人生を嘆くより、今の自分をポジティブに捉える方が明日からもちょっと頑張ろうかなと思える。
「なぜ私の人生はこんなにも酸っぱいのか…不平等だ!」と叫んでも、誰も助けてはくれない。それなら砂糖でもなんでも足す方がずっと良い。
日本にも「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があるけれど、これはどんなに辛い状況でも動かず辛抱強く耐えるべきという感じがする。正直なところ好きな言葉ではない。
レモンを噛んでいた頃の自分
会社がつらくて何度も辞めたいと思ったとき、周囲から「もったいない、もう少し踏ん張れ、隣の芝は青いぞ」などと言われ、わたしは愚直に置かれた場所に根を張る努力をした。結果、新卒から14年間も働いたけれど、それはとてもしんどくて、いま思えば苦いレモンを噛み続けているようだった。
ニューヨークに来たとき、わたしはなぜあんなにも歯を食いしばってレモンをかじっていたのだろうと振りかえった。
周囲の支えや優しさという少しの砂糖を励みに、もみくちゃになりながら酸味と格闘していた。当時はそうすることが当たり前だと思っていた。もう少し砂糖を加えて、自分を甘やかしても良かったのかもしれないが、そんな余裕はなかったとも言える。今は、その経験を学びにして、未来に活かそうとしている。
このレモンのことわざには派生的なものがいくつかあり、
「レモンが与えられたならオレンジジュースを作れ(ありえないことを成し遂げて周りを驚かせよう)」、「絞ってウォッカを注いでパーティーをしよう」など、楽観的なものが多いのもアメリカらしくて良い。
もし、あなたの人生がレモンでも、それを活かす方法がきっとどこかにあるはず。
キラキラと光るグラスに注がれる上品なレモネードで乾杯。
そんな日を想像して、前を向くことが生きる活力になりますように。