「持たない暮らし」に憧れて、大量にあった服やモノ、そして情報や常識に流され鵜呑みにしていた価値観を手放し、見直しています。
「持たない暮らし」とは、持っている豊かさに気づくこと
いつも思うのは家の中を見渡すと、簡単には捨てられないモノがとても多いこと。
小1の入学式に初めて買ってもらったロケット鉛筆を、小6まで大事に持っていた私。死んだ祖母が履いていたという古着のスカートを10年大切に持っていた私。モノに過度に思い入れを込めすぎてしまう性分です。
これは母が作ってくれたモノ、これは友達が誕生日に買ってくれたモノ、自分でお金を出して買った思い出のモノ…。
どれも優れた機能というわけではありません。「こんな便利なモノなんで今までしまいこんでいたんだろう!」というようなモノは、残念ながら殆どありません。だからこそ、しまってあったのです。
結局、その一つ一つのモノより思い出、相手の気持ち・愛情を受け止め、自分の中に落とし込んでから捨てるのは、とても難しい。
モノにまつわるエピソードを思い出し、感傷に浸りすぎず本質を確かめながら捨てる行為は、正直とても疲れるのです。
目に見えないモノの方がずっと大切
「こうして、思考は現実になる」という本の一節で、こんな文章があります。
一流の手品師なら誰でも知っていることだが、手品で一番大切なのは観客の気をそらせることだ。自分が本当にしていることから観客の注意をそらし、一見重要そうだけれど実は重要ではないものに注目させる。
実は、私たちも自分に対して全く同じことをしてきた。自分の意識を、物質的な世界だけに向けさせているのだ。目に見えるもの、形のあるものばかりにとらわれているせいで、本当は目に見えないものの方がずっと大切だということに気づかない。…(中略)私たちの人生で主役を演じているのは、実は目に見えないエネルギーや、思考、感情、意識だ。
この文章から、家族や友人が私にくれた贈り物を大切に保管することだけが、その気持ちを受け止めている証ではないと感じました。
むしろそれは、自分の意識が物質的な世界だけに向いている証拠。
今でも、大切な写真や手紙、頂き物の一部は捨てずに保管していますが、結局そのモノの持つ見えない感情をどれだけ感じることができるかがとても大事だと気付かされます。
反抗期にワガママ娘だった私は、親が買ってきたものが気に入らないと「こんなのいらない!」などとすぐ文句を言ってました。
あの時の申し訳なさから、大人になってから親に貰ったものを捨てたら悪いなと、随分残していました。
しかし、母は先日記事に書いたとおりのマキシマリスト。
片付けられないことを全て親のせいにして来た過去 – LEAN STYLE in NY 〜リーンスタイル in NY〜
ここ数年、母が買ってくれたもの、作ってくれたものだけで段ボール大が3つもありました。
正直、保管はしているものの、使いきれていないことに、やはり申し訳なさが残ってたんです。
そしてモノを捨て、身軽になりたいと感じた時。
目に付くモノを次から次へと処分していく作業は、捨てれば捨てる程に、一歩づつ「本当の自分」に近づいていくような感覚で、誇らしげな気分になりました。
でも「持たない」だけにフォーカスせずに、同じくらい家族や友人、大切な思い出、続いていく繋がりなどの「持っている豊かさ」「貰った気持ちの大きさ」を確信し、「自分自身の豊かさ」にしていかないといけないなと思います。
そういう意味では、私のお片づけはまだまだ終わらず、「(モノではないものを)持ってる豊かさ」をこれからもどんどん味わう必要がありそうです。
んちゃ