カッコイイとは?
過去2回の投稿で「可愛い」「美人」を取り上げたので、
次は「カッコいい」で締めくくりたいと思います。
いわゆる「カッコいい」の定義
格好いい、すなわち男女に限らず外見がよい、イケてる、good-looking 、cool、 stylish…、必ずしもビジュアル面に限らず、内面・人間性でも「カッコいい」は使います。
江戸時代から「粋」は庶民の生活から生まれ、身なりや振る舞いが洗練されていて、遊び方を知っているということでしたので、日本人は古くからこの美意識を持ち合わせているようです。
難しいのが、
「カッコいい」という理想を目指すばかりに、
→カッコつける=カッコ悪い。あちゃー。
→じゃぁ、カッコつけない
=カッコいいとは限らない。あちゃー。
→じゃぁ、どうしろと??
という具合に「カッコいい」には理屈・理論では、簡単に説明できない難しさがあるし、視覚からの情報を否定しきれないというジレンマもあります…。
特別に「カッコいい」を目指すつもりはなくても、無粋とか野暮ってのも、ちょっと、ね?、カッコ悪いよりはカッコよくありたいという感情は少なからず、心にあったりしませんか?
高城剛氏が「カッコいいとは?」に答えてた。
そういえばと、高城剛氏が著書の中で「カッコイイ」について質問に答えていた部分を早速引用。
カッコいいやカッコ悪い、は妄想ではないか、と常々思っています。
人工的な見た目の話であることがほとんどです。大自然を見て、カッコいいとは思いません。素晴らしいとか、不思議だとか、癒される、などと感じるはずです。すなわち、カッコいいとは不自然なことを言うのです。
だから、カッコイイ人を目指してはいけないのです。素晴らしい人や不思議な人や、自然な人を目指さなくてはいけないのと思うのです。それは、一般的に言われるナチュラルとも違うのです。自然体とすら感じさせません。しかし、強いエネルギーは、その人にほとばしっているのです。まるで太陽のように。
脱COOL。これが21世紀のセンスになるでしょう。僕はまだまだだなと思い、今日も世界の果てまで修行と遊びに出かけるのであります。(『私の名前は高城剛。住所不定。職業不明。』より)
2011年発行の書籍であり既に4年の時を経ているものの、カッコいいを目指すのではなく、「カッコイイ」を目指してはいけないと説く。
ふむ。肩の力が抜けてなんとも21世紀っぽい気持ちになる(私だけか)。カッコいいとか悪いとか、そういうことすら『カッコ』にいれて閉じ込めて、自然体でいたい気分になる。
持つとか持たないとか、こだわるこだわらないとか、ぜーんぶひっくるめて、そのフィールドから一度離れる、俯瞰する方が物事はきっとうまくいく気がする。
もう「他者と比較しない」は聞き飽きたし、皆わかってる。他人は勿論のこと、自分の固定観念とのギャップを埋めたりもしない。ただ波を漂うようにシンプルに生きたいなと感じる。カッコつけたくなったら、そんなコトどうでもいいか、はははと一度笑い飛ばしてみようかな。ただSimple&Authenticに生きようっと。んちゃ