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LEAN STYLE〜リーンスタイル〜

ムダのないスタイル。そして一歩を踏み出す。

LEAN STYLE

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人は泣きながら生まれてくる。なんにも持たずに生まれる赤ん坊から気づくこと

ありがたがる系の日々

こんにちは、マギーです。

最近、何にでも「ありがたがる」系な私です。

 

友達とご飯を食べに行っては「友達でいてくれてありがとう」と喜び合う。

外食に行っては「こんなに美味しいご飯、幸せだねぇ。あぁ、ありがたいね」

便利な世の中のサービスやアプリなども、何でもいちいちありがたがってしまい、昔のおばあちゃんを思い出す。これは老いなのか?笑

 

そんな感謝の気持ちの根源を考えたという話。

赤ん坊と人生

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昨年の12月に妹が女の子を出産しました。

 

実家では、ヒロイン誕生に皆んなで「抱っこさせてー、貸してー」と奪い合い。赤ちゃんって「幸せの象徴」とも言える無垢な存在で、ずっと見ていても飽きませんよね。

 

でも、赤ちゃんはこの世に泣きながら生まれてくるんですよね。

 

「人は泣きながら生まれてくる」

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これはシェークスピアの「リア王」に出てくる言葉ですが、なかなかに深いものです。

笑いながらでも、怒りながらでもなく、泣きながら生まれるということ。

 

それは、祝福に満ちた世の中に生まれ出ることへの喜びよりも、混沌とした世界に自分の意思とは裏腹に出ることへの恐れで、孤独な人間の叫びだとリア王は言っています。

 

そんなネガティブな話を聞くと、思わず「いやいや、そうはいっても幸せは自分の気持ちの在り方次第だし、この世は泣くほど辛くもないし、楽しいこともあるよ」と思うのですが、

 

その反面、赤ちゃんや子供が感じる「未知なものへの恐怖」は、形は違えど大人の自分にも経験がある。どんなに思考が現実化して、ハッピーを引き寄せられるとしても、人はいつか死んでしまうし、予期せぬことも起こる…。

 

そう考えると、「僕らの人生はピカピカと輝きヴィヴィッドに彩られたワンダフルな毎日だ」とやみくもに信じることと、目を背けがちな辛い事実や世界の悲しい現実を知った上でそれでも生きることに価値がある、と考えることはやはり別物なんだろうと思ってしまう。悲観的という言葉では片付けられない、どうにも避けがたいリアル。

 

期待しない覚悟で生きる

先ほどのリア王の言葉は五木寛之さんの「大河の一滴」で知った言葉。とても響く文章に溢れているので、いくつか引用します(…は中略)。

 

人生は苦しみの連続である…人は苦しみ、いやおうなしに老い、全て病を得て死んでいく。私たちは泣きながら生まれてきた。そして最後は孤独のうちに死んでいくのだ。

 

そう覚悟した上で、こう考えてみよう。

 

「泣きながら生まれてきた」人間が、「笑いながら死んでいくこと」は、はたしてできないものなのだろうか。

私たちは死ぬときはただ一人で逝く。どんなに愛と善意に包まれて看取られようとも、死とは自己の責任で向き合わなければならないのである。

だから親は子に期待してはいけない。子も親に期待すべきではない。人を愛しても、それはお返しを期待することではない。

なにも期待しないとき、この思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いやりが<早天の慈雨>として感じられるのだ。そこに自ずと湧き上がって来る感情こそ、本当の感謝というものだろう。

 

親切に慣れてしまえば感謝の気持ちも自然と消えて行く。だから、慣れないことが大切だ。いつも何も期待しない最初の地点に立ち戻りつつ生きるしかない。 

 

私たちは何にもなく生まれた

一糸まとわず、身一つで何にも持たずに生まれてきた私たち。

 

仕事があること、家族や友達が一人でもいること、食うに困らず生活できていること。そうした「当たり前」のことさえも、

 

小さい頃や、それらが十分でなかった時のことを振り返ると、「あぁ、なんてありがたい…」と思えるものです。

 

それらを「そんなのは当然の権利だ」「むしろ世の中の平均的な家庭はこうだ」とか、「周りはみんなこうしている」と言い捨ててしまうと、気づかぬうちに「期待の世界」へ足を踏み込んでしまう。

 

だから、私たちには幸せになる価値がある、と思うと同時に、周りにその役割の一旦を期待するのではなく、そこにただ在ることに感謝することも忘れてはいけないんですね。

 

 ▽いろんな気づきのある本です。